2016年10月12日水曜日
2016年4月19日火曜日
2016年3月9日水曜日
【プレゼン巡業2016】ここで折り返して思うこと
先日のTEA-LAMPさんでのプレゼンで第3回目を数えました。
そもそもなんでこんなことをやるのか。
きっとこれは私の死生観がそうさせるんだと思います。
死んだら何も言えません。本当なら自分の葬式に参列した人たちに、自分の口で我が人生を振り返り、これから先を生きていく人たちにメッセージを送りたい。
でもホントに死んだら何も言えないんです。これまで死んだ人が何かをしゃべるシーンに出くわしたことがありません。(映画とかならありますが)
だから何でも生きてるうちに言わなければ!と思うわけです。
それが間違っていても、アホみたいなことでも、吐き出して、同じ時空で生きてる人と議論がしたい。
そして限りある人生の時間の中で、より楽しく生きれる方法やツールを模索したい。
いつ生まれたのかは母子手帳で見た誕生日で分かるけど、いつ死ぬのかは分からないわけで、逆にいえばいつ死んでもおかしくない!(道路を歩いてたら、居眠り運転の車が突っ込んでくるかもしれない)
生きてるだけでスゴいラッキーなことかもしれません。
そんなわけでこのプレゼンイベントは、私が一人で2時間超しゃべり倒します。
自分のこれまでの人生、今後の野望の全てを語るには足りませんが、自分という人間を下手くそなりにギュッと凝縮した2時間になってます。
2時間しゃべるのは長い時間のようですが、人生の時間の中ではとても短い時間です。
これをやることは、私にとって葬式をすることよりもずっと意味のあること。
また、こういう個人イベントをするといろんなことが見えてきます。
「この人は来てくれるでしょ!」という人が来てくれなかったり、案内メッセージを華麗にスルーされちゃったり…(結構ショック!)
でもこういうことって、自分は友達と思っていても相手からすればただの面倒な知り合いだったり・・・何かしらの印象的ギャップなんだと思います。
こういう機会にお互いの関係を再確認できます。
おかげで今後の人生がよりクリアに。(ショックを受けることは確か!)
無視するっていうことも立派な反応だと、ポジティブに受け止めてます。
だからこういう、超個人的なプレゼンイベント。
ぜひみんなやってほしい!と思います。
私も生きているうちにみんなのことをもっと知りたいですし。
残り2会場、よろしくお願いいたします。
ここから折り返して残すところあと2回。
津軽地方、3月13日(日)16:00〜@もぐらや(青森市)。
南部地方、3月21日(祝月)16:00〜@The Hair Shop(五戸町)。
そもそもなんでこんなことをやるのか。
きっとこれは私の死生観がそうさせるんだと思います。
「死人に口無し」
死んだら何も言えません。本当なら自分の葬式に参列した人たちに、自分の口で我が人生を振り返り、これから先を生きていく人たちにメッセージを送りたい。
でもホントに死んだら何も言えないんです。これまで死んだ人が何かをしゃべるシーンに出くわしたことがありません。(映画とかならありますが)
だから何でも生きてるうちに言わなければ!と思うわけです。
それが間違っていても、アホみたいなことでも、吐き出して、同じ時空で生きてる人と議論がしたい。
そして限りある人生の時間の中で、より楽しく生きれる方法やツールを模索したい。
いつ生まれたのかは母子手帳で見た誕生日で分かるけど、いつ死ぬのかは分からないわけで、逆にいえばいつ死んでもおかしくない!(道路を歩いてたら、居眠り運転の車が突っ込んでくるかもしれない)
生きてるだけでスゴいラッキーなことかもしれません。
そんなわけでこのプレゼンイベントは、私が一人で2時間超しゃべり倒します。
自分のこれまでの人生、今後の野望の全てを語るには足りませんが、自分という人間を下手くそなりにギュッと凝縮した2時間になってます。
2時間しゃべるのは長い時間のようですが、人生の時間の中ではとても短い時間です。
これをやることは、私にとって葬式をすることよりもずっと意味のあること。
また、こういう個人イベントをするといろんなことが見えてきます。
「この人は来てくれるでしょ!」という人が来てくれなかったり、案内メッセージを華麗にスルーされちゃったり…(結構ショック!)
でもこういうことって、自分は友達と思っていても相手からすればただの面倒な知り合いだったり・・・何かしらの印象的ギャップなんだと思います。
こういう機会にお互いの関係を再確認できます。
おかげで今後の人生がよりクリアに。(ショックを受けることは確か!)
無視するっていうことも立派な反応だと、ポジティブに受け止めてます。
だからこういう、超個人的なプレゼンイベント。
ぜひみんなやってほしい!と思います。
私も生きているうちにみんなのことをもっと知りたいですし。
残り2会場、よろしくお願いいたします。
なぜプレゼンをするのか【YOiCHi.PDF 関連記事】
2015年8月19日水曜日
オオバコの話
「オオバコ」という植物を知っていますでしょうか。
道端で良く見かける雑草です。
生命というものは全般的に様々な特徴を備えつつ、自らを存続させようと進化してきました。
中でも雑草というのは調べると非常に興味深いものがあります。
その名の通り、「雑」に扱われてきたこともあり、実に逞しく、狡猾です。
雑草の多くは踏みつけにも強く、踏まれても全く気にせず成長するものがほとんど。シロツメクサ(クローバー)などはその代表例と言えますが、このオオバコというのはその点において相当ドMな雑草です。
地べたに這うように大きな葉を広げ、画像のような花芽をつけて種子を作ります。
この種子、水分を含むとネバネバになり、人や動物の足の裏、車のタイヤにくっつき、その性質を利用して自らの子孫を遠くに運ばせます。
つまり、踏まれないと困るわけです。
雑草の多くは、野菜のように栽培してもらうわけにはいかないので、いろんな面においてとにかく失敗が許されません。
自分がうまく育たないような場所や時期に発芽してしまってはもうおしまいです。
なので雑草は発芽の段階からかなり条件を絞っています。
オオバコの場合、このような性質からフカフカの土では発芽しません。
むしろ人が良く歩いたり、車が通ったりするような踏み固められた場所で発芽します。
そういう場所でなければ他の植物との競争に勝てず、種を遠くに運べないのです。
yamaanでも、オオバコはフカフカの畑エリアには一株も生えてきません。
気持ち悪いくらい、私がよく歩く場所や車の通り道にだけ分布しています。
植生からいろんなことが見えてきます。
こちらの写真は私の実家の裏口。
今年の6月9日まではここにジャクソンという黒犬がいました。
崖が削られている部分に犬小屋があり、その前で彼はよく吠えていました。
今では犬小屋も撤去され、彼の亡骸は大地に還りつつあります。
ここにかつて彼がいたとは誰も思わないでしょう。
しかし、地面から顔を出してきたオオバコは語ってくれます。
ちょうど犬小屋の入り口だったところからオオバコが分布しています。
生前、彼がよく往復していた場所です。
彼が生きて歩いた地面は踏み固められ、オオバコが発芽するのに適していたのです。
そしておそらくこのオオバコの種も何代にも渡り、彼の足の裏にくっついたのでしょう。
彼の足跡がこのオオバコです。
彼が舌を出しながらちょこちょこと私の方に近付いてきました。
何度も目にした光景がオオバコの上に蘇ります。
彼によって運ばれた種がまるでお礼を言っているようにも見えて、私からもオオバコにお礼を言いました。
彼の死後から2ヶ月。
オオバコから教えられる彼の痕跡でした。
道端で良く見かける雑草です。
生命というものは全般的に様々な特徴を備えつつ、自らを存続させようと進化してきました。
中でも雑草というのは調べると非常に興味深いものがあります。
その名の通り、「雑」に扱われてきたこともあり、実に逞しく、狡猾です。
雑草の多くは踏みつけにも強く、踏まれても全く気にせず成長するものがほとんど。シロツメクサ(クローバー)などはその代表例と言えますが、このオオバコというのはその点において相当ドMな雑草です。
地べたに這うように大きな葉を広げ、画像のような花芽をつけて種子を作ります。
この種子、水分を含むとネバネバになり、人や動物の足の裏、車のタイヤにくっつき、その性質を利用して自らの子孫を遠くに運ばせます。
つまり、踏まれないと困るわけです。
雑草の多くは、野菜のように栽培してもらうわけにはいかないので、いろんな面においてとにかく失敗が許されません。
自分がうまく育たないような場所や時期に発芽してしまってはもうおしまいです。
なので雑草は発芽の段階からかなり条件を絞っています。
オオバコの場合、このような性質からフカフカの土では発芽しません。
むしろ人が良く歩いたり、車が通ったりするような踏み固められた場所で発芽します。
そういう場所でなければ他の植物との競争に勝てず、種を遠くに運べないのです。
yamaanでも、オオバコはフカフカの畑エリアには一株も生えてきません。
気持ち悪いくらい、私がよく歩く場所や車の通り道にだけ分布しています。
植生からいろんなことが見えてきます。
こちらの写真は私の実家の裏口。
今年の6月9日まではここにジャクソンという黒犬がいました。
崖が削られている部分に犬小屋があり、その前で彼はよく吠えていました。
今では犬小屋も撤去され、彼の亡骸は大地に還りつつあります。
ここにかつて彼がいたとは誰も思わないでしょう。
しかし、地面から顔を出してきたオオバコは語ってくれます。
ちょうど犬小屋の入り口だったところからオオバコが分布しています。
生前、彼がよく往復していた場所です。
彼が生きて歩いた地面は踏み固められ、オオバコが発芽するのに適していたのです。
そしておそらくこのオオバコの種も何代にも渡り、彼の足の裏にくっついたのでしょう。
彼の足跡がこのオオバコです。
彼が舌を出しながらちょこちょこと私の方に近付いてきました。
何度も目にした光景がオオバコの上に蘇ります。
彼によって運ばれた種がまるでお礼を言っているようにも見えて、私からもオオバコにお礼を言いました。
彼の死後から2ヶ月。
オオバコから教えられる彼の痕跡でした。
【オオバコ】(大葉子)
*多年草/オオバコ科オオバコ属
*生薬
「車前草」(全草)・下痢止め、咳止め、止血、強壮
「車前葉」(葉)・腫れ物、排膿
「車前子」(種子)・利尿
*食用可(若葉)・塩茹で後、炒め物や和え物。生のまま天ぷらに。
2015年6月30日火曜日
おおおどる@十和田乗馬倶楽部チャリティーフェスタ、無事終了
先日、行われました十和田乗馬倶楽部チャリティーフェスタでのおおおどる、無事に終えることができました。
主催ほか関係者各位、皆々様、寒い中大変お疲れさまでした。
今回は雨という天候のもと、メンバーの和太鼓とヴァイオリンが使えないかもという事態に陥ってまして(雨に当たらずとも湿気の影響で楽器が損傷します)、わずかな楽器でもなんとか舞台を成立させるべく、前日にパフォーマンス構成を追加しました。
それはなんともチャレンジではあったのですが、「朗読」と「唄」でございました。
近頃、おおおどるのオファーが増え、おどりというものを考える機会に恵まれました。
私がやっているファジーなおどりは言語化や体制化、さらには明確化しないので、無意識による表現が可能であり、表したいものは即興で大抵のものが表現できてしまいます。
しかし、これはあくまで表現者自身のものであって、それが観る人の意識にちゃんと伝わっているかどうかは定かではありません。(無意識から出るものですから、ひょっとしたら無意識部分には伝わっているのかもしれません)
一方で、言語化したり体制化するのが朗読や唄です。
これは普段、無意識部分にほとんど任せて表現しているような私にとっては、融通の利かない、とても疲れるものです。
意識から産み出されて、意識で表現するものですから、それを練り上げる時間や労力もかなり要します。
しかし、こちらの方が前者に比べてはるかに観る人に伝わったり、一緒に感覚を共有できたりします。
結果、おどりは表しやすく伝え難し。
そんなわけでして、次のステップに「朗読」と「唄」というものが浮上していたのです。
実際は、現場でイケイケ状態になったカンタくんが組太鼓を出すことを決め、カキノさんは安価な子供用のヴァイオリンで参戦。(ピアノの町屋くんは雨の影響なし)
別にいつも通りのアドリブなセッションでも良かったはずなのですが、せっかくなので前日に考えた構成でやってみることに。
終わってみれば、朗読のいいところで「広島」を「弘前」と読み間違えるわ、唄は歌詞をなかなか思い出せず、変な間が空いたりと散々ではございました。
意識を使うことは相当に疲れることで、アラが露骨に見えてきます。
やはり一夜漬けで意識に叩き込もうにも無理があったようです。
しかしながら、この新たな試みに会場の反応も良く、メンバーも相当愉しんでくれたようでして、少し手応えを感じた日になりました。
こういった状況下に置かれ、新しい表現手法を実践&検証することができました。
今後のおおおどるにどういう変化をもたらしていくのか、私自身がスゴく楽しみです。
記録撮影してくれたマモちゃん、ありがとうございました。

主催ほか関係者各位、皆々様、寒い中大変お疲れさまでした。
今回は雨という天候のもと、メンバーの和太鼓とヴァイオリンが使えないかもという事態に陥ってまして(雨に当たらずとも湿気の影響で楽器が損傷します)、わずかな楽器でもなんとか舞台を成立させるべく、前日にパフォーマンス構成を追加しました。
それはなんともチャレンジではあったのですが、「朗読」と「唄」でございました。
近頃、おおおどるのオファーが増え、おどりというものを考える機会に恵まれました。
私がやっているファジーなおどりは言語化や体制化、さらには明確化しないので、無意識による表現が可能であり、表したいものは即興で大抵のものが表現できてしまいます。
しかし、これはあくまで表現者自身のものであって、それが観る人の意識にちゃんと伝わっているかどうかは定かではありません。(無意識から出るものですから、ひょっとしたら無意識部分には伝わっているのかもしれません)
一方で、言語化したり体制化するのが朗読や唄です。
これは普段、無意識部分にほとんど任せて表現しているような私にとっては、融通の利かない、とても疲れるものです。
意識から産み出されて、意識で表現するものですから、それを練り上げる時間や労力もかなり要します。
しかし、こちらの方が前者に比べてはるかに観る人に伝わったり、一緒に感覚を共有できたりします。
結果、おどりは表しやすく伝え難し。
そんなわけでして、次のステップに「朗読」と「唄」というものが浮上していたのです。
実際は、現場でイケイケ状態になったカンタくんが組太鼓を出すことを決め、カキノさんは安価な子供用のヴァイオリンで参戦。(ピアノの町屋くんは雨の影響なし)
別にいつも通りのアドリブなセッションでも良かったはずなのですが、せっかくなので前日に考えた構成でやってみることに。
終わってみれば、朗読のいいところで「広島」を「弘前」と読み間違えるわ、唄は歌詞をなかなか思い出せず、変な間が空いたりと散々ではございました。
意識を使うことは相当に疲れることで、アラが露骨に見えてきます。
やはり一夜漬けで意識に叩き込もうにも無理があったようです。
しかしながら、この新たな試みに会場の反応も良く、メンバーも相当愉しんでくれたようでして、少し手応えを感じた日になりました。
こういった状況下に置かれ、新しい表現手法を実践&検証することができました。
今後のおおおどるにどういう変化をもたらしていくのか、私自身がスゴく楽しみです。
記録撮影してくれたマモちゃん、ありがとうございました。

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